シラノの恋・オセロの嫉妬

皆さんはシラノ・ド・ベルジュラックの悲しい恋の物語をお読みになったことがありますか。もうだいぶ前に文学座がこのロスタンの有名な戯曲を上演したので御覧になった方もいるでしょうね。
あの上演は、辰野隆・鈴木信太郎、両先生の名訳によったものですが、この訳本はたしかに文庫本の中にも入っています。
フランスの作家、ロスタンの書いたシラノ・ベルジュラックは「ガスコンの青年隊」に属する軍人で、剣をとっては無双の名手、のみならず、詩をよくする心優しいき騎士でありました。だがこのように文武に秀でた彼には一つの深い苦しみがあったのです。
それは彼が生まれつき醜い男だったことです。異様に長い鼻が、彼の容姿を歪めていました。シラノはこの鼻を持った自分に苦しみ、それを恥じていたのです。
シラノはロクサーヌとよぶ乙女にひそかな愛を感じていました。だが、醜い自分の鼻のことを思う時、彼はロクサーヌに、自分の胸の中を打ち明けることはできなかったのでした。
同じようにロクサーヌを愛している男にクリスチャンとよぶ青年がありました。シラノと同じようにガイコンの青年隊に属する軍人ですが、これはシラノに比べれば、剣においても教義と心情との点でも至って平凡な詰まらぬ男でした。(傍線の部分に注意しておいてください。)
だが、ふしぎなことが始まった。シラノはクリスチャンのロクサーヌに対する恋心を知るや否や、進んで彼女を、この詰まらぬ男にゆずったのみか、彼等の恋の成就のために時には友のために優しい思いを打ち明ける恋文の代筆をしてやり、時には友に代わって闇の夜の露台の下で、心のこもった愛の言葉を述べているのであります。
やがて、年月が流れクリスチャンは死に、ロクサーヌもまた修道院で老いる時まで、シラノは彼の秘めた恋の真情をひたかくしにしたのです。その心をロクサーヌが知ったのは、シラノが不慮の災難から死なねばならぬ瞬間でした。
しかし彼女がむかしの恋文の秘密を悟った時、シラノとその女性とは死によって永遠に遮られていたのであります。
この美しいシラノの純愛は貴方たちを涙ぐませるに充分でありましょうし、彼の恋気高さと深さとは今日も我々の胸を感動させるものです。
シラノは何故、自分の恋をクリスチャンに譲ったのか。一見、それは彼が自分の醜い容貌を恥じたのだと言えます。しかし、シラノともあろう者が自分とクリスチャンとの優劣を容貌だけの点で考えたとは思えません。
クリスチャンという男が、たとえ友であれ、愛するロクサーヌを委(ゆだ)ねるには余りにも詰まらぬ、余りにも平凡な男であったことはシラノ自身が誰よりも一番知っていたのです。
もし彼が本当にロクサーヌを愛しい、尊敬し、その幸福を願っていたなら、このような平凡な男と彼女との結婚のために働くはずがありませ。
たとえ容貌がみにくくても、他の点でクリスチャンにはるかに勝る自分こそ、ロクサーヌを幸福にしうると自信を持つべき方法もありましょうし、あるいはそうでなければ、彼女のためにクリスチャン以上の男を探してやるなど、他に色々の路があったはずなのであります。
すると、何故、シラノともあろう男が、クリスチャンとロクサーヌとの恋の成就を願ったのか――この疑問は本を閉じたあと、何時までも残るのです。
答えは簡単です。
シラノはただ、ロクサーヌを、どんな男でも良い、結婚させて、自分の手の届かぬ地点におきたかったからであります。
「結合と安定とは情熱をさまさせ、不安と苦悩とは情熱をかきたてる」
そうです。なぜなら彼は「結合と安定とは情熱をさまさせ、不安と苦悩とは情熱をかきたてる」という原則を知っていたからなのです。彼が恐れ、怯えていたのはたんに自分の醜い容貌、異様な鼻のことではありませんでした。
彼が本当に恐れていたのは、自分とロクサーヌと結合し、安定し、そして情熱が色あせ、冷めることだったのです。だから、彼はロクサーヌとクリスチャンとの結婚をみとめ、二人を結婚させることによって愛する女を自分の手の届かぬ、近づくことのできぬ場所においたのであります。
言ってみれば、彼は愛の結合よりも別離を、安定よりも苦悩の方をえらんだのです。なぜなら、別離、苦悩、不安の方が、彼のロクサーヌにたいする思慕を更にかきたて、更に純化することをシラノは無意識に知っていたからなのでした。
皆さんもこの点をよく考えて下さい。ここに情熱のふしぎさ、矛盾、悲しさがあるのです。(繰り返して言いますが、ぼくはここで情熱という言葉を使い、決して愛と言う言葉を使っていません。)
シラノの例を今、だしましたが、今度は、ほかの例を考えてみましょう。そうだ。皆さんはソビエトの美しい映画『オセロ』をごらんになったでしょうか。ごらんにならなくても、シェクスピアの有名な戯曲は、すぐ手にはいりますから、読んでいただきましょう。
妻に愛を裏切られた
オセロは一言で言えば、妻に愛を裏切られたため、彼女を殺してしまった男の物語です。だが、彼は何故、妻を殺したのでしょうか。妻が裏切り、他の男と情を通じ、彼の名誉と威厳とに泥をぬったからでしょうか。けれどもこの話もよく読めば、疑問はいくつでも残るのです。
オセロほどの男は、もし自分が妻を他の男に奪われたために彼女を殺したならば世の笑いの種になるぐらいは知っています。殺したからといって、相手の男に勝てたとは言えません。いや、逆に、彼と彼女との恋を永遠に成就させる結果にさえ、なりかねないのです。ならば、何故、オセロは妻を殺したのか。
妻にたいする情熱をいつまでも燃やしつづける
これは、さきほどのシラノの場合をもっと極端な形に推し進めた情熱の物語りなのです。つまり、オセロは、ちょうどシロノがロクサーヌを「自分の手の届かぬ地点」においたように、愛していた妻を、もっと自分から遠い世界、近づくことの出来ぬ地点に運びたかったのであります。
それには、彼女を殺すことより、優れた方法はありません。死によって隔てられたオセロと彼女は、もはや、永遠に結合することはありますまい。
しかし――しかし、オセロはその苦悩と消え失せぬ嫉妬のために、かえってなくなった妻にたいする情熱をいつまでも燃やしつづけることができるわけです。
ここにも愛する者の結合よりも別離を、心の安定よりも、苦悩を選んだ情熱の秘密があるわけです。
まず第一に情熱とは不安や苦しみや嫉妬、個々の傷が強ければ強いほど、かきたてられるということ。そして逆に、こうした不安や苦悩が消え去る時、情熱もまた、色あせて、燃えつくしてしまうものだということ――これが第一。
自分の情熱を消さないため
第二には、情熱につかれた者は、恋人を愛しているのではなくて、本当は自分の情熱の方を愛しているのだということ。たとえば先にあげたシラノの場合を考えてごらんなさい。
もし、シラノが本当にロクサーヌを愛しているならば、彼女をクリスチャンのような詰まらぬ男には与えなかったはずです。シラノが真に愛していたのはロクサーヌ、この人ではなく、むしろ彼女に対する自分の情熱の方だったのです。
自分の情熱を消さないため、それを滅ぼさないため、彼はわざわざ、彼女から離れ、この別離によってひき起こされる悲しみや苦痛を味わうことを選んだのでした。
情熱のこの二つの性格をご承知して下さるならば、皆さまは、情熱と愛とがどのように違うものかがお分かりになると思います。
情熱とはある意味で
自己中心主義、一種の
エゴィズムであることも理解して下さるでしょう。だが愛とは、このようなエゴィズムだけでなく、むしろこのエゴィズムを棄てようとする闘いなのであります。
つづく
嫉妬について